精神医学の歴史(後編)

はじめに

今回は精神科の病名について(前半)の続きになります。前回述べたように、精神疾患に対して効果がある薬物が発見・開発されるようになったことで、いつどこで誰が診断しても一致した結果が出るような、統一された診断基準の作成が求められるようになりました。今回はそうした要請のもとで作られたDSMを中心に、20世紀後半から21世紀にかけての精神医学の歴史について見ていきたいと思います。ちょっと難しい内容になりますので、この記事ももっと知りたい!という人向けのものとなります。

DSM-3の衝撃

すでに述べてきたように、20世紀中頃までの精神医学の中心は、フロイト由来の精神分析や、哲学の影響を受けた精神病理学の議論にありました。しかしながらこうした議論に基づいて行われる診断は、それを行う医師によって病名がバラバラになってしまうという問題がありました。それは効果的な治療法の研究や医療保険の支払いに支障をきたすようになっており、「もはや精神医学は医学とは言えないのではないか」ということまで言われるようになっていました。

そこで1980年、アメリカの精神医学会は、以前からあった病名のリストであるDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)の第三版、DSM-Ⅲの作成によって信頼性の高い診断基準を作りあげたのです。

このDSM-Ⅲの診断分類法は「操作的診断基準」と呼ばれるものになります。詳しくは別の記事で述べますが、これは疾患の原因を想定せずに表面にあらわれた症状に基づき病名を分類する、というものです。それまでの診断分類の主流(いわゆる伝統的診断基準)は、外因・心因・内因という原因に基づくものでしたから、根本的と言っていいような大きな変更になったのです。

DSM-Ⅲが「操作的診断基準」を採用したのは、精神疾患の原因がまだ解明されていないがために、共通して見ることができる症状によって分類することで、立場が異なるさまざまな人が共通の土俵でその原因や治療法の研究ができるようにすることを目指したからです。その後、DSM-Ⅲは数回の改訂を経て、現在はDSM-5と呼ばれる第五版が広く使用されています。

DSMがもたらした功罪:エビデンスと過剰診断

DSM-Ⅲによって、異なる医師が診断したとしても同じ病名をつけることが可能となり、精神医学は医学の中に留まることができたと言えます。そして何より明確な診断基準が定められたことにより、精神医学は科学的なエビデンスに基づく治療を広く実施することが可能になりました。こうした点は、何にも代えがたい功績であると言えます。

その一方で、DSM-Ⅲの出現は新たな問題を精神医学の中に生み出すことになりました。それが、過剰診断の問題です。

DSMで採用された操作的診断基準は、表面にあらわれた症状に基づき病名を分類するものです。ただし、DSMでは症状だけに注目するのではなく、それが生活に支障を来たしているかどうかを評価し、また他のさまざまな側面から検討することを求めています。しかしながら、実際は症状だけに注目し、その部分だけマニュアルのように用いられてしまうようなことが多発するようになりました。

結果として、本来であれば治療が必要かどうか怪しい軽症例まで「精神疾患」と診断されてしまい、爆発的に症例数が増加することにつながったのです。この傾向は、向精神薬の処方によって大きな利益を得ようとする製薬会社のコマーシャルや、またストレスとうつ病を結びつける裁判所の裁定などの社会的要因と相まって、ますます加速されていきました。結果として、うつ病や双極Ⅱ型障害、ADHDといった診断を受ける人が多く現れるようになりましたが、その中の少なくない人が本来であれば不要な投薬を受けていると考えられています。

今後の精神医学の展望

2013年にはアメリカ精神医学会によって、DSM-5が出版されました。当初は生物学的指標や予防概念といったものを導入して大きなパラタイム・シフトを目指していましたが、結局は研究の不足からそれまでの問題をほとんど解決できないままの出版となってしまいました。

精神医学の最大の課題は、それを客観的に測定するような生物学的な指標をいかに見つけるか、ということにあると考えられています。それについては「今後の科学の発展によって見つかるはずだ」という楽観的な見方と、それを批判する悲観的な見方の双方があります。現実はその中間にあるのではないでしょうか。つまり今後の技術的進歩や研究の進展によってある程度の生物学的な指標は見つかるものの、それが人間の心の病を全て説明するには不十分なものであるだろう、ということです。われわれの心は、ある特定の一面から捉えようとするにはあまりにも複雑なものと考えられます。

他にも近年の特徴としては、DSMが捨て去った「病気の原因」に対して再び注目がされているということが挙げられます。実はDSMの中に、唯一「病気の原因」が特定されているカテゴリーが存在するのです。それがPTSDに代表される心的外傷およびストレス因関連障害と呼ばれるものであり、いわゆる「トラウマ」によって引き起こされると考えられる疾患です。トラウマがもたらす影響については、脳画像診断技術の発展や疫学的研究の裏付けもあり、急速にその研究が広がっています。結果として、DSMと並ぶ精神疾患の病名リストであるWHOによって発行されるICDの最新版には、さらにさまざまな障害をトラウマに由来するものとして位置付けようとする複雑性PTSDが収録されることになりました。

社会的な影響も大きく関わる精神医学の今後の展望は、あまりにも不透明な部分が多い、というのが実情でしょう。願わくば、それが何より現在さまざまな困りごとを抱える人たちのために役立つものとなって欲しいとは思います。

参考文献

大野裕(2014)精神医療・診断の手引き:DSM-Ⅲはなぜ作られ、DSM-5はなぜ批判されたか 金剛出版

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