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PTSDから複雑性PTSDへ
この記事で述べたように、PTSDでは「再体験」「過覚醒」「回避」といった症状が出現してきます。しかしトラウマが複数回・長期間に渡ると、さらに別の問題が生じてきます。そこで現在では、それらをまとめて複雑性PTSDという病名で理解しようとされています。
そして2022年1月よりWHOによって正式に発行されたICD-11という新しい診断基準では、長期間ないしは反復したトラウマ体験があった時、PTSD症状に加えて「感情の調整障害」「自己概念の変化」「対人関係での困難」が見られることで、複雑性PTSDと診断するように定められることになりました。
感情の調整障害
ここではまず、感情の調整障害について取り上げます。複雑性PTSDの診断基準の中で、感情の調整障害については次のように書かれています。
感情のコントロールに関する重度で広汎な問題。些細なストレス因への情動的反応性の亢進、暴力的な(情動と行動面の)爆発、無謀なまたは自己破壊的な行動、ストレス下での解離性症状、行動の麻痺、特に楽しみやポジティブな情動を体験できないこと(ICD-11より抜粋)
少しわかりにくいので、噛み砕いて説明していきます。繰り返しトラウマを負った人に何が起こるのか、感情に焦点を当てて考えて見ましょう。
感情の役割
あまりにも「感情」という言葉が日常に溢れていて、「感情の役割」について考えることは意外にないのではないでしょうか。
一言でいうならば、感情とは「身体と脳をつなげるもの」であると考えられます。私たちは何かを経験すると、それに影響されて身体はちょっとずつ変化します。例えば、なにかびっくりするようなことが起きた直後、身体に注目すると心臓がドキドキしていることがわかるでしょう。また直接経験したほどの強さはないにせよ、経験したことを思い出すことによっても、その身体の変化は起こります。しばらくたったあとで「さっきはびっくりしたなぁ」と思い出すと、ちょっとドキドキするでしょう。
ほとんど意識できないほどの小さな変化を含め、私たちはほとんど全ての経験を身体的なものとして感じています。そしてその変化が感情(または情動)を生むのです。
良い変化であれば良い感情として、悪い変化であれば悪い感情として、その変化は脳に伝えられます。そして脳はそうした感情を手がかりにしながら、私たちの思考や行動を組み立てます。そしてその思考や行動によってまた身体に変化が起こり、その変化は感情として伝えられていきます。私たちの脳と身体は、絶え間のないやりとりを感情を通じて行っているのです。

トラウマ記憶が引き出す感情反応
しかしトラウマを負うと、感情を安定させ、身体と脳のバランスをとることがとても難しくなってしまいます。
通常、記憶が引き出す身体の変化は、直接現在経験しているものに比べると強いものではありません。しかし、トラウマ記憶の場合、いつまでもその強度を失わずに身体の中に留まります(参考:トラウマ記憶の特徴)。そのため、あたかも現在もトラウマとなった体験がそこで起きているのと変わらないような、強い感情が身体から脳に伝え続けられてしまうのです。
その感情はあまりにも強いため、思考や行動といったものを通して調整することは困難です。そのため、ちょっとしたストレスでも、それがトラウマ記憶に触れるのであれば、強い感情的な反応が引き起こされてしまうことになります。これがフラッシュバックといわれるものです。

感情の爆発
感情調整の障害は、大まかに分けて「爆発」と「麻痺」という二つのあらわれ方をします。
まずは、感情の爆発です。強いトラウマ体験が存在したり、あるいは幼少期に感情調整の力の基礎が育たなかった人たちは、些細なことでも危険を感じて、激しい怒りが爆発するようにあらわれることがあります。子どもの場合は激しいかんしゃくとして、まさに手のつけられない状態となります。
こうした感情の爆発をしているときは、周囲が説得したり、冷静に考えるように促しても、全く効果がありません。どうしようもなくなって無理矢理叱りつけたり、押さえつけようとすると、ますますヒートアップします。そして時には、自身や周囲を危険に晒すようなことにまでエスカレートしてしまいます。
こうした感情の爆発は、身体が危険を強く感じているために生じていると考えられます。そんな時は、脳は「のんびりと考えている暇はない!今すぐ命を守るための行動をしろ!」と指令を下し、主導権を思考ではなく、身体に移してしまうのです。そのため、説得や反省といった、頭に働きかけるようなアプローチはほとんど効果がなくなってしまうのです。

感情の麻痺
次に、感情の麻痺です。これは爆発とは反対に、引き出される感情があまりにも強いため、脳は身体感覚や感情そのものを脳から切り離して自身を守ろうとする働きであると言えます。いわば「ブレーカーを落とす」のです。
しかし、それにより自分の感情と身体に対する気づきが失われてしまいます。トラウマを負った人は、失感情症(アレキシサイミア)と呼ばれる「自分の感情がわからない」という状態や、手足の感覚が鈍かったり、暑さや寒さを感じにくいという特徴が見られます。これも身体と脳をつなぐ感情調整の失敗の結果であると言えます。
麻痺と同様に、心があまりにも強い感情から自身を守る方法としてとるのが、解離という心の働きです(参考:解離について)。麻痺にしろ解離にしろ、それを使うことで一時的に苦しい感情から逃れることができるものの、同時に楽しい・嬉しいなどポジティブな感情も失われてしまうことが問題となります。

爆発と麻痺への対処法
感情の爆発も麻痺も、身体と脳のバランスが崩れがその背後にあると考えられます。そのバランスの回復が、感情の調整障害に対する対応となります。
共通するのは、身体の安全性の確保です。感情の爆発を起こしている人や、かんしゃくを起こしている子どもに対しては、説得ではなく「大丈夫だ」ということを伝えてあげると良いでしょう。同時に手を握ってあげたり、子どもであれば毛布など柔らかいものに包んであげたりすることで、身体の安全感を回復させるような対応が良いと考えられます。麻痺に対しては、穏やかな刺激を与えることが良いでしょう。冷たい水を飲む、心地よい刺激を肌に与える、好きな匂いを嗅ぐなどです。これらの方法はグラウンディングとして知られています。
また爆発も麻痺もなく、身体と脳のバランスが取れている状態のことを「耐性の窓」と呼ぶことがあります(参考:耐性の窓について)。爆発と麻痺を繰り返すことで、この「耐性の窓」は小さくなってしまいます。反対に爆発や麻痺にならずにストレスに対処できていくと、この「耐性の窓」は広がり、ストレスにより対処できるようになっていきます。
不適切な養育の結果としての調整不全
また、幼少期の虐待や不適切な養育があると、そもそも感情調整の力が育たないという問題があります。すでに述べてきたように、複雑性PTSDの診断基準を満たさなくとも、こうした問題から現在の生きにくさのルーツがある人たちのことを、発達性トラウマ障害と呼ぶことが提案されています。
私たちは、最初から自分の感情を知っているわけではありません。子どもの頃に不快なことがあっても「悲しい」「寂しい」とは思いません。「なんだか不快!」と泣いて行動で示すだけです。この状況で、大人が「悲しいんだね」「寂しいんだね」と不快な気持ちに名前をつけるという適切な対応をしていくことで、子どもはだんだんと自分の感情を発見していきます。
こうした親子間のやりとりの結果として、私たちは感情を持つことができるようになります。そして言葉の発達と共に、感情を元にして自分の欲求を言葉にしたり、適切な行動をとることができるようになるのです。
ネグレクトを含む虐待がある環境においては、もちろんこうした感情調整はなされません。また、それほど過酷には見えない環境でも、感情調整の力が育たなくなることがあります。適切な対応がなされないと、子どもが自分の感情に気づく力が弱くなりやすいのです。
いわゆる発達性トラウマ障害と呼ばれる人たちに、複雑性PTSDの人と似たような感情調整の問題が出るのは、こうした幼少期の体験が背景にあると考えられています。そうした場合、感情調整の力を育んでいくことも、回復のためには必要となります。
軽躁状態について
最後に感情の調整障害との関連で、双極Ⅱ型障害と複雑性PTSDの関係について触れたいと思います。
複雑性PTSDでは、マイナスの方向(気分の落ち込みなど)の変化だけでなく、プラスの方向(軽躁状態)への変化も見られます。これは双極性障害におけるⅡ型の症状とすごくよく似ています。しかし精神科医の杉山登志郎先生によれば、複雑性PTSDの気分のアップダウンは、双極性障害の治療では効果がないために別個のものではないかと述べています。
一般的に用いられている診断基準であるDSM-5には複雑性PTSDの項目がないため、過去に受けたトラウマ由来の感情障害においても、双極Ⅱ型障害の診断や治療を受けている例があると考えられます。
しかしなぜ、複雑性PTSDにおいても軽躁状態が見られるのでしょうか。杉山先生は、虐待を受けた子どもの気分変化やかんしゃくが発展した可能性を示唆しています。また複雑性PTSDの概念の提唱者であるジュディス・ハーマンは、虐待を生き残るために子どもは万能感を発展させることがあると述べていますが、こうした感覚は軽躁状態と混同されやすいのかもしれません。
ここで重要となるのは、複雑性PTSDの人は身体からの警告に対してブレーカーを落とすことに慣れきっているということです。
複雑性PTSDの人は、何か一つに集中すると、たとえいくら身体が疲れていたとしても、それを無視していつまでも作業を続けられます。その時は達成感を得られて、とてもよい気分で万能感を得られることもあるでしょう。ですが、どこかで身体は疲れてしまいます。しかし身体は疲れてブレーキをかけたがっているのに、身体のメッセージを脳がうまく受け取れないため、そのまま突っ走って、そして燃え尽きてしまいます。その時の体験が、強い気持ちの落ち込みや無能感を生み出します。こうした気分のアップダウンが、双極Ⅱ型障害と重なる状態を作り出している可能性があります。
双極Ⅱ型障害でも自分の身体の状態を正しく把握することが治療において大切であると言われていますが、同じことは複雑性PTSDにも当てはまるでしょう。いずれにしても、自分の身体からのメッセージを適切に受け取れるようになることが、回復のために大切になると考えられます。
参考文献
ジュディス・L・ハーマン 中井久夫訳(1999)心的外傷と回復(増補版) みすず書房
白川美也子監修(2019)トラウマのことがわかる本:生きづらさを軽くするためにできること 講談社
杉山登志郎(2019)発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療 誠信書房